2026/01/04 お知らせ
新年ご挨拶ーそして新年に思うこと〈AI時代の弁護士の役割とは?〉 (弁護士川村和久)
新年明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になり誠に有難うございました。
今年は、新年にあたり、久しく更新していなかったエッセイの代わりということでもないのですが、新年にあたって思うこと、考えてみたことを、自分の備忘も兼ねて書いてみたいと思います。少し長くなりますがご容赦ください。
さて、私がかつて長年所属していた盛和塾(2019年解散)(*)の塾長である故・稲盛和夫氏は、かねて「近代日本の歴史を俯瞰するとき、40年ごとに節目を迎え、「盛」と「衰」を繰り返してきた」という「40年周期説」を唱えておられ、その節目の年が昨年2025年でした。
「まずは、1860年代の明治維新へのうねりに始まります。その後、日本は富国強兵策を進め、1905年に日露戦争に勝利します。しかし、軍国主義の道を邁進したことから、1945年の第二次世界大戦の敗戦を迎えます。焦土からの復興をめざし、懸命に経済成長に努めた結果、世界第二位の経済大国となります。ところが1985年のプラザ合意による為替変動、その後のバブル景気破綻により、日本経済は低迷を続けることになります。」この1985年の40年後がまさに2025年にあたるわけですが、稲盛氏は、「その真っ只中にあった2001年初頭、まさに21世紀の幕開けにあたり、稲盛は次の40年の節目にあたる2025年に向けて、日本の根本的なあり方を問うていました。それは、自国だけの経済的繁栄をめざすのではなく、世界の国とともに歩み、世界から尊敬される「富国有徳」の国づくりでした。」(以上「稲盛ライブラリー」からの引用。出典:稲盛は、今年が素晴らしい転機の年になると願っていた | Facebookアーカイブ | 稲盛ライブラリー | 稲盛和夫 オフィシャルサイト)(*)
実際2025年を振り返ってみれば、国内外の政治・経済・社会事象から、世の中の様々な側面や意味において今「新しい波」が到来しつつあることを実感します。
その中でも特に、昨年10月に初の女性首相としての高市早苗内閣が発足したことが最も象徴的な出来事だったのではないでしょうか。
ただ、上記にて、稲盛氏は時代を「予想」ないし「予見」することに主眼があったのではないことは言うまでもありません。来る時代の節目にあたり、日本をどちらの方向に向けてゆくのか、ゆけるのかは、我々各自がその与えられた役割(責任)を引き受け、主体的に行動して作り上げてゆくものだということが、氏の正に本意とするところであったと私は考えています(氏の「運命と立命」をテーマとする塾長講話などから。参考:思想の源流を探る | 稲盛和夫研究 | 稲盛和夫 オフィシャルサイト)。
さて、2025年について、個人的には、AIが急速な進化を遂げた年だったように実感しています。「デジタル」といった側面で言えば、折しも、今年の5月からは民事裁判手続の(完全)デジタル化が予定されています。民事裁判手続のデジタル化 | 裁判所
かくいう私自身も2024年年末あたりから試みに「ChatGPT」を使い始め、昨年は、一部業務にも活用を試みてみました(もとより、趣味的な話題にも驚くほどしっかり応えてくれます(*))。
結論として、法律的な論点整理や、論点抽出、リスク分析には非常に有用です。抽象化して事案を入力すると、簡単な契約書式や合意書案なども素早く作成してくれます。
登録したての新人弁護士よりも、そういったいわゆる「リサーチ」の面ではむしろ「より優秀」だと言えるかもしれません。
2つの問題点を感じています。
一つは、そういったデジタルの時代に、特に新人・若手の弁護士はどうやって経験を積み、仕事のやりがいを感じることができるのだろうかという点。もう一つは、AIの時代における弁護士の役割はどこにあるだろうかという点です。
まず一つ目の点から。
私は、2023年10月に執筆したエッセイデジタルとアナログのバランス雑感(弁護士川村和久) – 川村・藤岡綜合法律事務所で次のように書きました。
「最近は、裁判期日もほとんどがウェブでのオンライン期日になりました。昔イソ弁の頃(1990年代)、わずか10分で終了する午後1時の弁論期日に出廷するために、片道3時間かけて札幌地裁に出張し、期日後帰りの飛行機の時間が来るまで、「味の時計台」で美味しい味噌ラーメンを食べたり、本物の「時計台」で札幌農学校の歴史を学んだり、大通り公園で雪まつりを見たりしたことが、今や懐かしい思い出です。人生には無駄や回り道も時には必要なもの。昔はそんな「無駄」や余裕があり、若い法曹が経験を通じてある種人間として、社会人としての「幅」を身につけることもできたように思います。かつての牧歌的で余裕のあった時代の思い出話に過ぎませんが、昨今では本当に世知辛い世の中になってきたものです。」(ここには書き忘れましたが、あの「六花亭のマルセイバターサンド」商品詳細を知ったのも、出張帰りの空港の待ち時間でお土産に買ったのが最初でした!)
昨今では、第1回の口頭弁論期日でさえオンライン期日が利用できるようになり、さらには双方代理人が就いている事案では第1回口頭弁論すら開かれずに(期日を取り消して)、オンラインでの弁論準備手続や書面準備手続で審理を進めてゆきます。このような事案で、途中で和解が成立すれば、一度も裁判所に赴くことなく、法廷に出頭することもなく事件が終了してしまいます(当然このようなケースでは「裁判の公開」(憲法82条)は一切なされないままです)。
私は、少し前から、「裁判」というものが、もはや「オンラインゲーム化」してきているのではないかという感想、感覚を持っています。この表現の是非はともかくとして、やり方によっては、すべてが2次元(つまり、バーチャル)の世界で完結できてしまう、そんな時代になりつつあります。
実は私は少し前から紙の記録はほとんど利用していません(*)。本年5月からは裁判所においても紙の訴訟記録は一切作成されないことになります(※考えればすごいことです。明治に我が国の司法制度が確立して以来の革命的といって良い変革のように思います)。それを先取りしている形になりますが、もうこの形には慣れてしまいました。現在では、むしろ物理的な「紙」こそがボトルネックであったのであり、むしろ「紙」から離れることで、弁護士業務がその制約から解き放たれ、様々な生産性向上のアイデアが溢れているのではないかとさえ感じています。そして、紙の記録は奥行きや分厚さもある3次元の存在でしたが、デジタルファイルは、PC画面上で見ることのできる2次元の存在に過ぎません。
また、オンライン裁判では、裁判官も相手方代理人も2次元画面中の存在であり、リアルな人物ではありません。リアルな人物と直接対峙した時に感じるノンバーバル(非言語的)な要素(表情、視線、身振り手振り(ジェスチャー)、声のトーン、話し方、姿勢、服装、対人距離、体の接触など、五感で感じ取れるあらゆる情報)の多くはそぎ落とされ、オンラインゲーム上のキャラクターに近似してきているような感覚があります。法廷であれば、確かに昔から裁判官はポーカーフェイスでしたが、弁護士は違いました。第1回期日に出頭すると、相手方代理人が、結構緊張しているなとか、興奮してきているな、今不利な点を突かれて焦ったな(声が震える、額に汗など)とか、幾つかのノンバーバルな手掛かりを元に結構感触をリアルに確かめることができたものですが、これがPC画面上では困難です。もとよりオンライン裁判ではそういった「丁々発止のやり取り」自体が少なくなってきたからかもしれません(何故かオンライン上では、全員が大人しく、「紳士的に」振る舞っています)。あとは法廷前後の相手方代理人との「立ち話」も結構重要だったりしたのですが(それとなく和解の可能性を探ったりするなど)、こういった機会もオンライン裁判では困難になりました。
法廷にリアルに出頭したときのあの独特の緊張感、あるいは「真剣勝負」という感覚も、オンライン裁判においては希薄になってしまうように思います。
裁判官は黒い法服を脱ぎ、一段高い法壇から降りています。PC画面上においては、こういった裁判官としての「威厳」を感じることのできる特別な「仕掛け」はありません。
弁護士も、昔私が新人の頃は、夏の暑い日でもきちんと上着を着て出廷するよう指導されていたものですが、近時はそういったこともありません。季節に関係なくカジュアル寄りの服装でオンライン参加している弁護士も比較的多くなったような気がします(そもそも事務所からでなく、自宅からでも接続が可能ですし)。これも研修所時代、法廷に入る前、出る前には必ず一礼しなさいと教わったものですが、そういった指導も今はどうなっているのでしょうか。真実や正義を追求する「場」としての「裁判所」や「法廷」という存在が、弁護士ですら身近な存在ではなくなってゆくようです。
クライアント(顧問先)との打合せにしても、最近はオンラインでの打合せを入れることが多くなってきていることも言うまでもありません。オンライン打合せだと、打合せ前後の軽い雑談の機会も随分なくなってしまったように感じます(雑談をすることで、お互いを良く知り、親しくなるきっかけを掴んだりという機会になったりするはずなのですが)。
我々が新人の頃は「現場(リアルな現実)」を大切にするように口を酸っぱくして言われたものです。3現主義(現場、現物、現実)という言葉もありますが、例えば、交通事故の事案であれば、必ず現場に行くように言われたものですが、現在では、グーグルマップなどで、現場の詳細な写真を手に入れることで済ますこともできなくはありません(かくいう私ももちろん利用しますが。。)。
確かに、デジタル技術の活用により様々な面で我々弁護士の業務の効率性は上がり、生産性も向上してきています(なにせリアルに裁判所(法廷)に出かけなければならない往復の時間だけでも相当に減り、事務所でのデスクワークに集中できるわけですから)が、果たしてそれによって取り残されてしまっているものはないのでしょうか(*)。少なくとも、これからの若い弁護士が、このような状況の中で果たして弁護士としての職業の本当の魅力を感じることができるのだろうか、心配に思っています(*)。
そして、以上に述べたようにリーガル・リサーチはAIの利用で大変便利になってきていますが、弁護士としての実力を付けることができるのは、このリサーチの力を磨く過程であったはずです(少なくとも私はそう理解し、後輩にもそう伝えてきました)。しかも、苦労してリサーチをして一定の「解」に辿り着けたときに感じる「喜び」や「達成感」は、AIによるリサーチでは失われてしまうのではないだろうか。また、努力してリサーチするからこそ、長年本当に身につく知識や経験になるはずであり、これが手軽に簡単にAIにより「答」を見つけることができるなら、そのような過程によって、長い目で見て真に弁護士としての知識や経験、スキル、粘り強い思考力といったものが身につくものだろうか(*)。
弁護士の仕事は単に事件を次々「処理」することではありません。現実に悩みを抱える依頼者があり、しかも自分の目の前にいる。その具体的な人間が抱えた問題を、共感しつつ共に悩み、適切に「解決」の方策を見つけてゆくことこそ、弁護士の真の仕事である、そういった実感を「2次元の世界」だけで伝えることは難しい。
人と人が真剣に対峙するからこそ、一種のリアルな実感をもって、事件の解決に向けて粉骨砕身することができる。だからこそこの仕事のやりがいもある。
そういったいわば「地に足のついた」感覚を伴った「仕事の意義」が、次第にこの業界から失われてゆくなら、非常に寂しいし、これからの若い世代がこの仕事に魅力や喜びを感じてくれるだろうかと心配になるところです。
かといって、30年前に私が弁護士登録したころの状況に今更戻ることはできないし、戻る必要もないでしょう。
このような、デジタル技術によって業務の大部分が2次元のPC画面上で完結するいわばバーチャル化した新しい時代における「弁護士としてのやりがい(魅力や喜び)」や「知識、経験、スキルの身につけ方」について、今後少なからず課題があるのではないかと考えています。
もう一つ。この新しい「AIの時代」における弁護士の役割はどこにあるだろうかという話です。
簡単な法律知識については、AIに聞けばほぼ正確に、しかも迅速に得ることができる時代が実際に到来しました。
今まで法律知識を「独占」してきた法律家の役割の相当な部分がAIで代替できることに一見なりそうです。
弁護士がクライアントに提供できるサービスあるいは「商品」を、単に「(法律の)知識」であると(狭く)捉えてしまうと、そのような弁護士はAIに取って代わられ淘汰されてしまうでしょう。参照:「弁護士」は経営者と経営課題を議論できるパートナーたるべし(弁護士川村和久) – 川村・藤岡綜合法律事務所
私は、過去に紛争解決事案におけるリーガルサービスについて(弁護士川村和久) – 川村・藤岡綜合法律事務所を書きましたが、そこで、私が「紛争解決」事案において特に大切にしている考え方(姿勢)として、次の3つを挙げています。
1 まずはクライアントとの信頼関係の構築に注力します。
2 常に複数の選択肢をお示しし、何が「最適(最善)」かをクライアントとともに悩み、考えます。
3 既存の法律の「限界」を知り、社会常識に適った「本質的価値」を追求します。
今、前述のコラムを読み返してみても、この3つの全てをAIで代替することなどできないと考えます。
結論だけ書くとするなら、AIは「判断(らしきもの)」はできますが、「倫理」を持ち合わせてはいません。上記で言えば、「常に複数の選択肢をお示しし」の部分は確かにAIでそれなりに代替は可能でしょう。しかしながら、「何が「最適(最善)」かをクライアントとともに悩み、考えること」や、「既存の法律の「限界」を知り、社会常識に適った「本質的価値」を追求すること」はAIに代替することはできないはずです。古くからの法諺にあるとおり「法は倫理の最低限」であり、実務において、法に書かれていない部分の倫理的判断の問題は必ず残ります。その倫理的判断はAIでは原理的にできないはずなのです。
「倫理」とは、単なる「正しさの判断」をいうのではなく、「判断の結果を引き受ける」ことまでを意味しているはずです。つまり、「倫理」とは、判断することの「責任」や判断による結果を引き受ける「覚悟」まで意味しているはずです。「責任」や「覚悟」は人格を有する人間しか持ち合わせておらず、それをAIに委ねることはできないし、また、してはならないものだと考えます。AIは、例え間違っても、非難されず、責任を問われず、失敗しても、人格を否定されない存在なのですから。
以上様々考えてきたときに、AIができることと弁護士でしかできないことの線引きが今後は重要となってくるはずです。
今の時代のキーワードは、「共感」「対話(コミュニケーション)」「倫理」「責任」といったあたりだと常日頃ぼんやりと考えています(さらに「利他」を付け加えることも可能でしょう)。
ここで、「責任」とは「responsibility」。その語源は「response-ability」、つまり応答する能力です。人と人との関係性において、あるいは社会において、その人が求められていることに応答すること、その応答の能力、いわば「応答責任」が問われている時代です。かつて、オバマ合衆国第44代大統領がその就任演説(2009年)で語った「What is required of us now is a new era of responsibility 」にいう「responsibility」であり「責任」です。(*)
自らが弁護士として社会から「いま・ここ」で果たすように求められている「責任」とは何か、そして、自らの「応答能力」を不断に高め続けることの重要性を新年にあたって改めて考えています。
当事務所では、
ー常にクライアントの最善を目指し、
迅速に、最適なリーガル・ソリューションをご提供するー
ことを基本理念としています。本年も、できるところから弛まず地道に実践してゆきたいと改めて決意しています。
末筆ながら、今年も無事新年を迎えられたのも、良き顧問先、依頼者、案件、スタッフに恵まれ、クライアントを始めとする関係者の皆様方のご支援ご芳情の賜物と改めて厚く感謝申し上げる次第です。
本年も所員一同研鑽し、精進して参ります。引き続き何卒よろしくお願い申し上げます。
代表弁護士 川村和久
(本文中の*について)
* 「盛和塾」は、京セラ創業者の稲盛和夫氏が、自身の人生哲学と経営哲学を若手経営者に直接教えるために1983年に始めた経営塾で、「心を高め、経営を伸ばす」を合言葉に、2019年末の閉塾まで36年間活動を続け、国内外で15,000名以上の経営者が学ぶ場でした。私は、弁護士1年目だった1995年3月、大阪弁護士会の旧会館6階大会議室にて行われた稲盛氏(当時京セラ名誉会長)の「人生と経営」というテーマの講演(数百名の弁護士で大会議室が溢れ、「立ち見」もあったと記憶しています)を偶々聴いて文字通り衝撃を受け、その後、これも偶々ある方のご紹介で当時代表世話人をされていたフェリシモ創業者の故・矢崎勝彦氏とのご縁をいただき盛和塾〈大阪〉に入塾させていただきました(2004年3月。当時36歳)。盛和塾では主に、稲盛氏が出席する塾長例会や全国大会(後に世界大会)と、全国の各支部が自主的に運営する自主例会が行われていました。当時の盛和塾〈大阪〉では自主例会として毎回塾生が自らの経営体験を発表し、それに対し塾生同士で討議し合う「勝己(しょうこ)の友」が毎月開催されていました。毎回塾生たる経営者同士が稲盛哲学に基づいて「ド真剣」に経営について議論する、真剣勝負の緊張感が漲っていたことを今でも鮮明に記憶しています。当時の大阪塾の代表世話人は、前述の矢崎氏とファミリーイナダ創業者の稲田二千武氏。自主例会では両氏から様々なことを学ばせていただきました。なお、上記本文における「責任(responsibility)」の概念や意義などは、当時矢崎氏が自主例会の場等で夙に強調してお話されていたことでした。
* 上述の「40年周期説」は私の知る限り稲盛塾長のオリジナルのようです。ただ、 「40年」が常に大きな転機を意味しているということは、敗戦から40年後の1985年5月8日に行われたヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説(「荒れ野の40年」)でも述べられています。この演説は「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」という言葉で有名ですね。この邦訳にあたって付けられたタイトルは、もちろん旧約聖書(出エジプト記3章12節、民数記14章33–34節、申命記8章2節)に書かれた古代イスラエルの民の出エジプト後の「荒れ野の40年」(このことが演説で繰り返し言及されていること)から採られています。
ここでは、40年という時間幅は「一世代の(完全なる)交代」に必要な期間として捉えられているようです。それが、「暗い時代が終わり、新しく明るい未来への見通しが開かれるのか」、あるいは、「忘れることの危険、その結果に対する警告」であるのかは別として、40年の歳月は人間の意識に重大な影響を及ぼしていると、この演説の中でヴァイツゼッカーは説いています。(以上、永野清彦訳・解説「新版荒れ野の40年」岩波ブックレットNo.767参照)
* 最初に趣味の場面でChatGPTに聞いてみたのは、映画 『交渉人 (The Negotiator)』(1998年) での終盤における、サミュエル・L・ジャクソン演じるダニー・ローマンとケヴィン・スペイシー演じるクリス・セイビアンが対話するシーンについてでした。ここでは、こちらも私が好きな、アラン・ラッドが主演した有名な西部劇の代表的映画『シェーン』(1953年)のラストについての言及があります。ローマンが「シェーンは死んだのか、生きていたのか」という話を持ち出し、それをセイビアンと議論します。この「シェーン死亡説」について尋ねてみたのですが、その映画における意義なども含めて、文字通り瞬時に、適確な回答が返ってきて本当に驚きました。
* 昨年中から「弁護革命」というサービスを利用し始めています。このサービスは、複数のPDFファイルを非常に読みやすくできる工夫がされており、PDFファイルに書き込んだり、マーカーを引いたりといった編集作業も容易です。セキュリティにも十分に配慮されているこのサービスに慣れてしまうと、もはや紙の記録には戻ることができません。私自身は、以前は大量の紙の記録がある大きな案件(建築訴訟など)の準備書面の起案をするときは、段ボール箱1箱に記録を詰めて金曜日に事務所から宅急便で自宅に送り、土日に起案をして、日曜日に事務所に送り返していました。最近ではこういったことをせずに、弁護革命上で記録を電子ファイルのままで検討し、起案しています。その他弁護革命が便利なのは、PDF書面をすべてOCRに掛けてテキスト変換するため、文献から書面への引用といった点のみならず、書面間でのキーワードでの横断検索や、最近では「AI検索」を利用してより高度な検索機能を活用することができるといった点にもあります。
* かつてCDが登場した際、波形のアナログ情報をデジタル化したことで階段的な波形となり、かつ、人間の可聴域を超える音域をカットしたことでデータを節約して、アナログレコードの豊かな情報量を削減したわけですが、本当の音楽ファンにとって、その違いが無視できるものではなかったということがありました。
本文ではノンバーバルな情報について触れましたが、さらに言えば、オンライン会議においてリアルの対面会議と比較して完全に欠落していることは、そもそも目線が合わず、アイコンタクトができないこと。ここが致命的です。原理的に、相手の目を見て話すことができません。「目は心の窓」「目は口ほどに物を言う」などという言葉もあるように、目は嘘をつきません。「ザ・プラクティス(the pratice)」というボストンを舞台に小さな法律事務所の弁護士たちが、時に強引な手段も使いながら依頼人を救うために奮闘する、エミー賞を多数受賞したアメリカの本格派法廷ドラマがあります。確かシーズン8くらいまであり、日本ではシーズン1とシーズン2をamazon primeで見ることができますが、私自身面白くて全話見てしまいました(かなりオススメです)。この中で、事務所の有能な黒人刑事弁護士ユージーンが、ある事件の弁護を依頼された際、依頼人に対し、「俺の目を見て話せ」と迫るシーンがあります。彼は、依頼人の目を見て彼の話していることが真実がどうかを見極めたうえでその依頼を引き受けることを決めたのでした。相手の目を見れば、本能、あるいは直感が働きます。オンラインでは裁判官や相手方代理人が話す際の目を直接見ることができず、これは例えば裁判官の心証を探るといった面において大きな損失といえます。逆に、相手の目を見て話すことでこちらの熱意や誠実さを示すといったこともできません。これは交渉事(裁判も交渉の側面があります)において相手を説得するという観点からはこれまた大きな「武器」を失ってしまうことになります。
それから、私がまだ駆け出しの頃、法廷で相手方の高名かつ素晴らしく有能な先輩弁護士に接し、独特のオーラのようなものを感じることがありました。その挙措動作から学ぶことは沢山ありましたが、オンライン期日が主流になるにつれ、こういったことも段々減ってゆくのかなとも思います。
* 私の親しい友人の医師に聞くと、彼は呼吸器外科ですが、最近では手術もダヴィンチなるロボットを使って、2次元の画面で操作するようです。医師の世界においても、似たような問題があるのか、ないのか、気になります。なお、本文での「裁判」は主に民事裁判を念頭においたもので、刑事裁判では現在でもリアルな場面(接見であったり、法廷であったり)が主流です。
* 職人の世界では、技術は師匠から「教えてもらう」ものではなく、「盗む」ものだと言われてきました。ミシュランに載るような一流のシェフの話を読んだことがありますが、修業時代、師匠は懇切丁寧に自分の技術を日中教えてくれるわけではない。そこで、勤めているレストランでお客が帰った後、お皿を洗いながら、食べ残しのお皿に少し残っていた料理のソースを指ですくって舐め、師匠の味を何とか覚えよう、身につけようとしていたというエピソードが語られていました(もちろん1日8時間勤務でしっかり帰っていれば、このようなチャンスすらありません。「働き方改革」の時代にはこういったエピソード自体がありえない話なのかもしれませんね)。
* この「責任」の概念は、新約聖書(例えば、ルカによる福音書10章25以下)に出てくる「善きサマリア人」のたとえと共通するものがあると思っています。
この話は次のようなものです。あるとき律法の専門家がイエスを試そうとして問う。「(「隣人を愛せよ」という)隣人とは誰のことか」。それに対してイエスは答える。強盗に襲われ瀕死の人が道に倒れていた。宗教的に模範とされる祭司やレビ人は彼を見ても助けず通り過ぎた。ところが、当時ユダヤ人から蔑視されていたサマリア人は立ち止まり、この人の傷の手当てをし、宿に運び、費用まで負担して介抱してあげた。そこで、イエスは律法の専門家に問う。「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」それに対し律法の専門家は「その人を助けた人です」と答え、イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言ったという話です。
これがキリスト教でいう「隣人愛」の実践ということになるのでしょう。まさしく具体的な場面において、その人が求められていることに対し、覚悟をもって応答する責任を果たすことをもって「隣人」となりうることをイエスは示したといえるのではないでしょうか。