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2023/10/05 トピックス

「交渉か、裁判か」についての当事務所の基本的な考え方(弁護士川村和久)

紛争事について弁護士に相談すると、どのような問題でも裁判に持っていかれるのではないだろうか?自分としては裁判まで行かずに、なるべく円満な話合いのもと穏便に解決したいが、そういう話合いや交渉も弁護士に依頼できるのだろうか。このような疑問なり不安をお持ちの方は結構おられるように思います。

これに対しては、実際のところ、その弁護士の考え方なりスタンスによりますという回答になろうかと思います。
今回は、この点に関しても、私自身の考え方について、少し詳しくご説明させていただきたく思います。

もう随分前になりますが、肝がんの手術ミスによる死亡に関する医療過誤訴訟を扱っているとき、参考のためにある医師の書かれた本を読んでいて、肝がん治療について、内科医は肝動脈塞栓療法を推奨し、外科医はやはり外科療法(手術)を推奨し、放射線科医は放射線治療を推奨するというような記述を見かけたことがあります。そこまではっきりと言えるかは別にして、やはりプロにはそれぞれプロとして得意な領域や勝負強い領域があるわけで、なるべくそこに敵を誘(いざな)い、そこで叩く、という傾向はあるのかもしれません。

私自身について言いますと、「裁判」は個人的にも得意意識のある分野です。また、裁判は正義や真実を追求する場として大切なものだと考えています。

しかしながら、同時に、裁判は決して万能ではないし、むしろデメリットも多いシステムでもあるとも思っています。

なぜでしょうか?まず、裁判は「時間」がかかります。知人に100万円貸したが返してくれないから返せ、というような単純な裁判であればさほど時間はかからないでしょう。しかし、多くの裁判では、相手方にも一定の反論や弁解の余地があり、裁判所はそのような反論や弁解に対して結構丁寧に主張を聞き、立証を検討します。こちらとすれば余りに荒唐無稽と思えるような反論ではあっても、一定の手続的保障を与えるのが裁判所というお役所なのです。法治国家における裁判所ですから、ある意味当たり前ではあるのですが、そのことにより、普通の事件でも一審の判決がでるまで平気で1年くらいはかかってしまいます。しかも、それに不満な当事者が控訴すれば、そこからまた少なくとも半年はかかってしまいます。さらにそこからどちらかが最高裁に上告したら・・・裁判が比較的迅速になった昨今でも、最終解決まで2年や3年かかるというのは決して珍しいことではありません。やはりこの時間は掛かりすぎだと思うのです。「裁判の遅延は、裁判の拒否に等しい」との法諺がありますが、裁判所と、裁判のユーザーたる我々との間の、この時間感覚の差はなかなか埋めようがないほど構造的な問題があるといえます。

次に、実はもっと問題な点は、裁判所が出した判決が必ずしも「正しい」とは限らないということです。一般の方にとって、これは意外に思われるかもしれません。
世間には裁判官は真実を理解してくれる「神様」のような存在だという「美しき誤解」があるように思います。我々からしますと、裁判官も普通の人間であり、何でも知っていたり、何でも理解できるような存在ではありえません。法律のことは確かによく知っているけれども、裁判官は一般に世間と隔絶された生活をし、社会経験は少なく、時に社会常識からみて疑問に思うような判決がなされることもしばしばあります。

また裁判では契約書を含む書面の「証拠」(書証)が重視され、事実認定にも限界があります。
しかも問題は、裁判による判決は、基本的に「0100か」の結論となってしまうことです。紛争解決を使命とする国家機関である裁判所は、持ち込まれた紛争について、「分かりません」という判決は下せません(心の中では本当はそう思っていたとしても)。どちらかを勝たせ、どちらかを負けさせて、終局的に紛争を「解決」するのが裁判所の任務です。そのために法律上、「立証責任」というルールがあります。このルールに従って一方当事者を勝訴させ、他方当事者を敗訴させるわけですが、これが紛争の「実態」に真に適った解決である保障は全くないと言わざるを得ません。

例えば、結婚している方なら夫婦喧嘩を思い出してください。多くの離婚訴訟もそうですが、夫婦間のもめ事というのは大抵どちらからが100%正しいということはありません。大体73とか64とか55分とかお互いに言い分はあるものです。世の中の多くの紛争もこれに近いと考えていただいてよいと思います。
そこに無理やり既存のルールである法律を当てはめ、限られた証拠に基づいて事実認定をしたうえ、100対ゼロの判決をするのですから、そこにはやはりどうしても「無理」が生じる場面がありえます。
極端に言うと、負けた場合はもとより、勝った場合でも、これで本当に良いのだろうかということが「論理上」ありうるのが裁判というものなのです。裁判では、「石が流され、木の葉が沈む」ということがありえます。例えていうなら、むしろ裁判では水に浮かび上がったものが(たとえそれが真実は「石」であっても)「木の葉」だと考えられているのです。

私自身は裁判には上記のような構造的な「欠陥」ないし「限界」がある以上、裁判はあくまで「最終的な手段」であって、そこに至る前に、まずは当事者同士で自主的に紛争を解決するための努力を試みるのが本来的に望ましいと考えています。

それがいわゆる「交渉」による解決となります。「交渉」であれば既存のルール(法律)を参考にしつつも、それに必ずしも厳格にとらわれることなく、実態に即した妥当な解決方法を自らの意思(当事者の合意)で「選択」することができます。いわゆる「WIN-WIN」の解決ができることが交渉のメリットです。それは、そのケース(紛争)において当事者が新たに個別の「法(ルール)」を創造するに等しい行為であり、「私的自治の原則」とはまさにそのようなことを言うのだと私は考えています。

もちろん、弁護士にとっては、一般には、裁判になった方が「弁護士報酬」は頂戴しやすいのです。逆に、交渉で上手く行き、短時間で手間暇がかからずに解決してしまうと、かえって報酬は頂きにくいのが残念ながら(?)実情です。あまりにスマートに解決してしまうと、その弁護士の工夫や努力がクライアントの目に見えにくいためです。
しかし、裁判で時間がかかり、しかも納得のいかない結果となり、弁護士費用もかかるのと、他方、交渉で、短期に、実態に即した解決を得て、弁護士費用も節約できるのとでは、どちらがクライアントにとって真に望ましい結果であるかは言うまでもないことです。

当事務所でも、当たり前のことですが、「最初に裁判ありき」ではなく、「クライアントにとってベストな解決策は何か」が最も重視され、優先されるべきテーマです。

とはいえ、上記のように裁判に訴えることなく交渉で早期に解決できるのが一般にはメリットがありますが、紛争の相手方が、余りに頑なで、非常識で、話にならないような場合には、最終的には裁判に訴えざるを得ません。裁判においてクライアントにとって望ましい結果が出るように、常に裁判遂行のための各種スキルを磨き、知識や経験を蓄積し、いつでも活用できるようにしておくこと、これも我々弁護士に求められていることであると考えています。

事と次第では理非を明らかにするために裁判で徹底的に争うという強い覚悟や気概の裏付けのない交渉が、無力であることも事実です。そして、相手が例えば国であったり著名な大企業であったとしても、裁判所は、国家権力を背景に、法に基づき公平に判断を示してくれる、あなたの信じる正義にとっての「最後の砦」というべき存在なのです。これが最終的には、裁判というものの、最も重要かつ好ましい特徴であると言えるのです。

なお最後に、一旦裁判となっても、その途中でいつでも交渉、あるいは裁判所の仲介により、「和解」も可能であることも付け加えておく必要があるかと思います。

もし、紛争事の解決について当事務所にご依頼されるにあたり、上記のような点を不安や疑問に思われるようなことがあれば、ご遠慮なく直接ご質問、ご相談いただければと思っています。
ご納得のうえご依頼いただければ幸いです。このような点も率直に認識を共有できるような弁護士ークライアント関係が望ましいものであると考えています。

(初出  2015年44日)